隙あらば自分語り
こんな長く書くつもりでは…
ムックの「ココロノナイマチ」が昔っから結構好きで、多分PVがめちゃくちゃ好きでよく見てたからなんだけど、この曲の
“何が悲しいんだろう?泣けなくなった事かな。”
という歌詞が印象に残っていた。この歌詞自体は加齢とか関係ないけど、体感として歳を重ねると泣けなくなるなるもんだなあと30になったくらいからよく思うようになった。仕事でミスをしても誰かと距離が離れても八方塞がりになって眠れなくても泣けやしない。昔はダバダバ泣いていたのに、その事柄を純粋な起点として泣くことが出来ない。恐らく「泣いたところで変わらない」という学習によるものだと思う。まあ泣けばスッキリするから実際は変わらないってことはないんだけど、泣いてる自分がダサくて嫌だみたいな意地もあるんだろうね。
好きなものに寄りかかりきろうとするにはいろいろなものが見えすぎるようになった。嗅ぎ回るようになったという方が正しいのかも知れない。良い表現ではないけれど。自我がある程度成長しきって社会生活を送る中で視野が広がったという内的要因と、見たくないものまでどんどん流れてくるSNS時代×速すぎる速度のリアルタイム消費の外的要因。推しで言えば事務所だったりオタク同士の何かだったりも含めて、無我夢中になるにはあまりにもノイズが多い。ハマりたての頃は勢いでいけたけど、最早全然盲目になれない。盲目でいたいし盲目でいられる方が圧倒的に楽なのに、定期的に何してんだろうわたしってキョロキョロしている。享受者の立場でエンタメに生命を懸けるにはわたしの心情や環境はもう熟しすぎたんだろう。
定期的に好きの気持ちに心地良く溺れて、でも頬を張られては息を切らして鬱いで、それでも睡眠や食事と同じくらいの認識で推しを摂取(「摂取」!)し続けていたら激しめの食傷を起こした。8月〜9月くらい。今もちょっと。自分の在り方に関わらず良いものは良くてどんな心情であれ好きなものは好き(ほら…FATEとか…)だし、外かつ受動的でもあるライブとかはまだ大丈夫だった。なのに自室で見たりするのはいろいろ考えてしまって駄目でCDもDVDもYouTubeも見てない、良いなと思ってもグッズも買えてない。内で能動的には見れない。自分の言及も他人の言及も不快に感じてしまって細かには喋れなかった。わたしは元々好きなものを全て閉じ込めてしまいたいあんまりよろしくない質だ。自分でもこの性質には大変うんざりしている。
寒くなってきたのが嬉しくて度々散歩に出る。理想は5℃以下の真冬。1月2月は本当によく歩いた。肺が縮こまるような感覚、鼻から血の匂いがするような寒さの中を歩いていると生きてる!と思う。今年も来年も、春になるまでここにいられたら夜には絶対外を歩きたい。でも散歩コースは少し変えたい、そろそろ飽きてきてしまうから。あともう少し寒くなってほしいんだよな、パーカー1枚じゃ足りないくらいに。そう思いながら歩く。ここに来て丸2年が経った、あの日からは10年が経った。そういう気分だからcali≠gariを聴く。lab.を聴く。FIGURE‘71を聴く。
いやーすごいよね。一発なんだよね。外を歩いてるのにも関わらず涙が出て来て我ながら驚いた。
大学時代の友達の今でも覚えている名言、「あのバンドはいつでもわたしを『あの頃のわたし』に戻してくれる」。ちなみにあのバンドというのはアジカンのことなんだけど、それがやっぱりわたしにとっては紛れもなくcali≠gariで、桜井青で、抗っても嫌がっても投げ捨てたくても結局こうして一番あっさり泣かせてくる。染みつきすぎている。イントロの音に、歌詞に、声に、あの頃のわたしが。例えば若い頃だからこそ共感出来ていたけど今はもうそこまででもない歌詞ってあるじゃん。中二っぽい歌詞とか必要以上に考えすぎてたり学校という狭い人間関係の中だからこそ共感していたものとか。これはもう今のわたしにはマッチしなくなったな、でもそれも悪いことじゃないよなあと思いながら聴く曲も増えたんだけど、もうね、全然一発。ビビる。特に「東京負け犬エレジー」は凄まじくてイントロ3秒で無理。笑っちゃうなー。行きこそすれ住んだこともない東京なのに。別に冷静に考えれば膝折るような挫折らしい挫折経験もないのにね。それでもわたしも木漏れ日で蜂の巣になるし、自分のことを燃やしてしまいたいと思うんだよ。
今の推しを見ていて考えることがある。「この人たちって全然わたしのものにならないな」って。cali≠gariを好きだったとき、同じようにあのバンドを好きだった人がいて、その中で友達も出来て時にはいろんな話題を共有しながら好きでいたのにどこかずっと「このバンドは自分のもの」という感覚があった。私物化とかじゃない。音に歌詞に曲に自分だけの思い入れがあって、ライブにイベントに自分だけの体験があって、バンドの歴史に自分の道のりを重ねるようにしてきたからこその感覚。ちゃんと思い出として機能しているという証拠と確信がある。あのバンドは確かにわたしの一部だったのだ。
それが今はそう思えていないし、今後も何か残るものは特別ないような気もしている。それを苦しく思ってる。余談だけどメリーも残ったものはそれほど多くない。好きだったし結構な頻度で追いかけた時期もあったけど自分のものになったかというとやっぱりちょっと違う。たまに聴いてメチャクチャ良いなって思うけどね。別に良し悪しで図るものではなくてそういうものなんだと思う。メリーはとにかく楽しくて、楽しかったで終わったからむしろそれ自体は良いことだった。ただ、今の推しで自分のものにならない感覚がずっと続くのは結構キツいなというのが本音。やっぱり自分で思うより好きなんだろうね。イヤだね〜。何がこんなに苦しいのかね〜。前提だろうね。自分で理由はハッキリ分かっているけれど、あまりに幼稚でバカで惨めすぎて言えない。だから好きなの辞めたいんだよ〜。どんなに朗らかで明るい気持ちで好きになっても最後には縋りつくような執着になっていってしまう。自分でもどうにも出来ない。
だからさあ、結局わたしはずっと「自分だけのもの」が欲しいだけなんだよね。何でもいいんだけど。そんなものないとは言い切れないけど手に入れるのはとても難しいものばっかり欲しがってる気がする。それと「自分を一番にしてくれる存在」が欲しいんでしょ。うーん、ペットでも飼う?冗談だよ、そんな無責任なこと出来んわ。まあ親の一番にもなれないんだから飢えても多少は仕方無いかと。愛されてなかったわけではないのは分かるけど一番だったわけじゃないしね。わたしは泣かないけど、わたしの中の幼児がわんわん泣いとるわ。
7期cali≠gariのことから10年が経って、なんとなく視界が少し晴れたのかも知れない。受け入れられなかった気持ちを受け入れられたような気がする。
大学時代の友達と話したり仕事で自己申告を書いていたりするとやっぱり少なからず「あのときああしておけばよかった」って思うことが出てくる。普段は全然そんなこと考えない性格なのにも関わらず、ちょっと違ってれば、自分がもう少しこうだったら、ってたらればを生み出して育て始めてしまう。だけどいざそのときに戻ったってわたしはその選択を出来ないと思うんですよ。怠惰だし、頭悪いし、楽な方に流れるし、ストレス耐性低いし、性格悪いし。自虐癖も治らんってか普通に全部事実だし。だけどそれはもうしょうがない。だって人生は不可逆なんだから。そんなこと考えたって意味ない。それにあの頃はあの頃でわたしなりに必死だった。死ななかっただけ偉かった。それがどんなに他人と比較してくだらないことだったとしても、わたしにとってはだいじでおおごとだったんだよ。それをわたし自身が否定するのは良くないと思う。
趣味のことを考えたくなくてノイズを耳に入れたくなくて始めた仕事には何の関係もない単なる興味本位の資格の勉強だったけど、今の状況の会社にはその資格にダイレクトに関係する部署がある。ラッキーだと思ったし、それならそこに行きたいなと思った。今までだったら自分にそんな大それたこと出来ないやって卑下してたと思う。ていうか今も自分の希望を言うのは正直怖いよ。「あなたには出来ません」って言われるのが怖くてやりたいって言えない。ずっと言えないでここまできた。でもそれって意味分かんないよな。別に言うだけならタダなんだし。ていうか「逆に不思議なんだけど、何でわたしはそんなに自分に自信がないの?」とさえ思った。悪くないんじゃないですかね。
行けたらいいなと思う。新しいところにいけば頭が忙しくなるし環境が変わることで体も疲れる、それを望んでる。好きでいるだけで生まれてくる無意味な自己嫌悪とも向き合わなくて済む。知識の領域を増やして恋慕を追いやってしまいたい。そんな不純な動機もありつつそこの部署を希望しますって書いて提出してきたよ。実際問題異動出来るかは全然別の話だけど。でもそう書くだけのことが自分にとってはかなり勇気が要ることだったし、書けた事自体が割と大きめの一歩なんすよ。
結局ね、最後には自立するしかなくなっていくんだなと思ったんだわ。今4:45だから書くけど。「自分を推せ」っていう言説、あんまり好みではないけど最終的にそうするしかなくなっていくんだな。自分だけのものなんて自分しかなくて自分を一番にしてくれるのも自分しかいないから、どこかで踏ん張るしかないんだよ。踏ん張れるようになるまでの手助けとして何かを好きになっている、なってきたと思えたらいいね。事実そうなんだと思うし。今のわたしにはまだちょっとむずいけどね。
ちなみにこれも何度も書いていますが東京負け犬エレジーは本当に本当にいろいろと凄まじく、冷たい雨と並ぶ桜井青を煮詰めて煮詰めた結晶みたいな曲なのでどうにかして聴いてください。記事タイトルにした意味をちょっとでもお察し頂ければ俺が喜ぶ