わたしが言えることは何もなく、泣きたい気持ちにはなれど涙も出ず、その癖してこれを書こうとしている。
ほんとにわたしは偉そうだよなあ。やんなっちゃうよねえ。
「推しは推せるときに推せ」という言葉に隠されたマッチョイズムがとても嫌いだ。
誇張ではなくオタクやってたら何百回と見る手垢がつきまくった言葉である。見逃さないでいてほしい、見逃したくないという切実な気持ちは痛いほどわかるけど、痛いほどわかるだけに推しだけを見て自分を顧みることを忘れさせ、そしてそれをした者ほど偉いとでもいうような風潮を煽るこの言葉に嫌悪感がある。
…んだけど、今回ばっかりはね。
わたしは人生で一度も逆上がりが出来たことがないくらいに運動神経がなく、というか人前でやる運動が嫌いで、集団行動は得意ではないしおまけに「絆」とかいうものにくだらねえと吐き捨てるような性格をしているのでスポーツなどには馴染みがなかった。勿論中学は帰宅部だった。最初に入ってた文化部は絵に描いたような見事な人間関係のトラブルで半年もせずに辞めた。
高校1年のときに前の席だった男の子がバレー部で、誰でもいいんだろうなって感じではあったけどマネージャーをやってほしいと誘われて悩んだ挙げ句に血迷って男子バレー部に入った。まあ元々の性格がクソなのでそこでも大層やらかしてはいるのだが、なんとか3年間辞めることなく続いた。何に対しても途中で放り投げてきた(これは親にもよく言われた)わたしが投げ出さずになんとか終わりまで完遂したものは男バレくらいである。いや、様々な問題はちゃんと起こした。クソなので。
おかげで唯一見るのが好きなスポーツがバレーボールになった。
地元にはサッカーチームがあり何度か市の招待や友達の誘いでサッカーの試合を見に行ったけど、応援自体は楽しくてもスポーツそのものが見ていて楽しいと思ったことはなかった。
でも高校3年間近くで見てきて、コートには入れなくても一緒に体育館にいさせてもらって、ルールとかどういう選手がどうすごいかとかがなんとなくでも分かるだけにバレーだけは見ていて楽しいと思えるようになった。
コートの中に一際目を引く選手がいるなと思ったのは、多分2018年か2019年くらいだったはずだ。バンギャ活動に現を抜かしていた間は日本代表が少し弱体化していたと言われていた時期なのも相まってそこまで集中して見てはいなかったけど、テレビでワールドカップをやっていて、久しぶりに見るかーと思ったのだ。
まあぶっちゃければ見た目が非常にストライクだったという完全にミもフタもない話ではある。
だけど何事も入り口なんてそんなもんでよくない?ってスタンスだし、バレーは普通に相変わらず面白いし、あとその選手は途中出場にも関わらずなんとフルセットの14点目(5セットマッチの5セット目は15点で勝敗が決まる)をブロックで決めていた。セッターなのに。ブロックや速攻などのスピードと高さが必要なプレーを求められるセンターではなく、トスを上げるのがメインのセッターが。そしてめちゃくちゃドヤ顔。更にチームメイトが「あいつが決めたよ!」って興奮するところが映し出されていた。
これは面白いと思った。
そこからはテレビでバレーの試合が放送される度にチェックし、わざわざアジア選手権見たさにCSを契約したりオリンピックをちゃんと見たくてテレビを買い替えたりした。テレビを!買い替えたのである!うける!
わたしは国際戦をよく見ていたし、彼はセンター(今はミドルという言い方をする)を多用する攻撃を得意とすることもあって、なかなか最初から最後まで出続ける機会がたくさんあったわけではなかったが(速攻攻撃は途中出場で相手のリズムを崩すときに使われることも多いので)、それでも彼を見たくてバレーを見ていた。誰が活躍しても嬉しいが、彼が活躍すればそれはもう猛烈に嬉しかった。
運動も嫌いで、一人のほうが楽な文化部気質で、未だに絆とかチームワークとか仲間とかめっちゃしんどいし、体育会系のノリきっつーってなるし、スポーツは世界を一つにはしないと未だに思う。
それでもスポーツって結構楽しいんだな、いいな、ゆるゆるのバレーだったらわたしもやってみたいなあと彼がトスを上げる姿を見てて思ったよ。
その彼の訃報が出た。
去年の春に病状が発表されていたから、どうにか快方に向かってほしくて気になって調べて、思わしくないことだけは嫌というほど理解し、なんとなく覚悟みたいなものは出来ていたのでついにきたかという気持ちだった。
想像だに出来ない。感情とか。辛かっただろうとか言う資格、やっぱわたしにはないし。ご結婚されてすぐだったこととか当時の国内リーグのチームが首位奪還を目指してかついい位置につけていたこととか、語る上での要素としてはいろんな観点があって、関わっている人の数も多いだけにいろいろな視点があって、だけど、やっぱりわたしには語る資格はない。
ただ、
若すぎる
若すぎるな…
人が亡くなることは誰にとっても等しく悲しくて寂しいことで、そして残忍なまでに平等な筈なのに、どうしても年齢を見て「若すぎる」と思った。もっとたくさん見たかった、見れたはずだったと思ってしまった。残念だ。言う資格なんてないけど、悲しいし、寂しいです。
わたしが好きなネット上の文章の中に以下がある。
“翌日は普通に起きて普通に働いた。相変わらず集中が続かないが普通の範疇だった。思えば私たちの知らないうちに既に彼は居なかったわけで、知っていてもこんなものなのかもしれない。”
そう、わたしたちは結局「推し」といった人たちの親しい人間ではなく、自分が知らない間に相手はいなくなってしまう。この2日間だって普通に朝起きてご飯を食べ仕事に行き帰って来てまたご飯を食べて眠って。生活をしている。相手がいつの間にかいなくなってしまっても、それを知ることなく、虫の知らせもなく、気付くこともなく。
わたしの世界は普段と変わらないはずなのに、「もう見ることができない」という事実はわたしの世界の見方を少しだけ変えてしまう。
もう見れないんだね。
審判への抗議のときにニコニコしているとこだとか。サーブに向かうときの集中している顔だとか。自分が決めたときよりもチームメイトが決めたときの方が喜ぶ姿とか。好きだったなあ。
つらいねえ…
想像だに出来ないけれど、闘病は絶対に簡単なことではなくて、そしてそれは終わったから、お疲れ様でしたと言いたい。すごいエゴだなあ。だけど、病気に負けたくない、絶対に戦い抜くっていう強い意志はさすが日の丸背負うだけあるよなって圧倒された。きっとたくさんの人を勇気づけたことと思います。
一時だけでもあなたのプレーが見れて良かったです。本当に楽しく見させてもらいました。ありがとう。次のオリンピックも応援してるので、日本代表に力を貸してあげてほしいです。
あなたがいない日本代表を見るのはとても寂しいけれど。
お疲れ様でした。
どうかゆっくり休んでください。