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おなじことをなんどでも書く

 

 

 

 

 

やべーオタクがバズる度に消滅したい気持ちがすごくて我ながら自他境界やばない?と思うんだけど、好意が加害性を孕むと気づけない内は推し活云々言うべきでもやるべきでもないし、かといって現実から逃げるために何かを好きになってようやく生きているからその馬鹿と阿呆の狭間でなんとか上手な死に方はないもんかと考えている。

Twitterは鍵をかけているしここでも敢えて名前は出していない(見る人が見れば分かる書き方はしてしまっている)けど、なんか、推しがわたしの好意で苦しんでしまったらどうしようという気持ちが何故か強くて、でもそれこそ思い上がりだなとも思ったりして。見えないところにいるのにどうやって相手が苦しむっていうんだ。この烏滸がましさたるや。

前世では、というか前世のほうがよっぽど近い距離だったのにそれは気にしたこともなかった。わたしはあの人を強いと闇雲に信じていたし、それこそが信仰と崇拝であって、まあ実際ファンがどうこうで動揺している様などはあまり見たことはなかった。ほんとうはどこかで傷ついていたりしたのかも知れない。傷つけた、とは、どうしても思えないところさえある。それほどの信仰だったみたい。金だATMだと言い切ることで一歩を踏み込ませないし、転がし方は上手かったんじゃないかなと今は思う。

それにしたってまあまあ厄介なファンだっただろうなあ。若さとは言えそんなもの免罪符にはならないよね。振り返るとあまりに苦しい。吐き出さずにはいられなかったけど、そうだよね、そんなん一人で死んでろよって話だもの。10年になる。一昔になる。情勢が変わったとしてもやったことは変わらない。もう二度と行かないから安心してくださいとしか。

そして今も繰り返していてまーじで死にそうになるよ。わたしもね、好きなものがなくても大丈夫になりてえの。ほんとは。自分自身の骨と血と肉だけで生きていけたらいいのにと思ってるの、今も。でも仕事がしんどいときとか推しの顔見るとちょっと安らいだりしちゃうし、楽しそうに笑ってるのを見るとどうしようもない後ろ暗さをひととき忘れられたりして助けられちゃったりするの。好きになってからしばらくはロープの金額もハンガーの耐荷重もペットシーツの枚数も考えずにすんでいる。没頭こそ救済、死ぬ算段の暇もない。そういうところがキモくてヤバいんだろうなあ。

綺麗に始まって綺麗に終わりたい。最初から最後まで適切な距離を保って潔く清く終わりたい。でも出来ない、出来た試しがない。出来た試しがないから朗らかに好きだと笑っていられない。今回はどうやって終わるんだろう。それがずっと頭にあってずっと怖くて、冷静でいようと努めてブレーキを踏んで、そしてスリップしては思ったところに停まれない。「好き」という気持ちが素晴らしいものだなんて思えない。強くて汚くてうねっていて携えることも重くて苦しい、美しくなんかない、素敵なものなんかじゃ全然ない。まいっちゃうなあ。