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おなじことをなんどでも書く

いちご大福はおいしい

 

 

 

 

 

昨日の文章改めて見ると重言が多くてめちゃくちゃだなあ。でももう修正すんのもあれだな。

思えば好きだとか「推し」だとかを明確に公言した相手が亡くなったのは初めてで、勿論そういうことは起きない方がいいんだろうけどいちにちずっと「ひとが死ぬこと」とはどういうことなのかを考えている。なんでこういうときに限って休みなんだろうな、仕事したくないけど今日は仕事であるべきだっただろうがよ。意味もなくTwitterを開いては閉じ開いては閉じる。アイドル関連寄席関連動物関連のおすすめツイートを流し見る。合間合間に流れてくるバレー関連のツイート。彼のことでもそうでなくても。

“思えば私たちの知らないうちに既に彼は居なかったわけで”

これが全てなんだけど、本当に。自分で書いた言葉じゃなくて引用元の方に恐縮だけど。てか引用元すら明記してなかったな。

https://www.tumblr.com/inuinuinu/59968005637/17

折りに触れて何度も何度も読み返す文章だ。

「推し」という生き物はきっとすべて知らない間にいなくなってしまうんだと思っている。だからこそ今奇妙に冷静なのかも知れない。彼の場合は病状を公表されていたからある程度の予想と覚悟が出来ていたのもある。覆されてほしいとも、それが本当に本当のことなのか最後まで信じられなかった気持ちもあったけど、衝撃というよりは、もう闘わなくてよくなったんだな、と思った。

分からない。人が亡くなるということがどういうことなのかが。こんなふうに書くのは罰当たりで不謹慎だとは思うよ。きっとすごく悪いことをしている。でも書かないとなんか…だんだん塞がっていくような気がして。人の気持ちを鑑みれなくて、自分のことばっかりでごめん。

身内であれば嫌でも現実だしその後の具体的な段取りの中で実感するのに。そうか、実感がないのかな。実感するだけの距離が物理的にも精神的にも足りないから、覚悟みたいなものはしていたはずなのにどこかでまだ信じられないから、だからどういうことなのか分からないのかな。

いつも通りにするしかないから普通に過ごした。普段は8時までには目が覚めるのになんでか昼近くまで全く起きなかったけど。いつも通りに朝だけしっかり食べて、昼はいちご大福をつまんで、ちゃんとおいしくて、ちょっと昼寝して、気持ち控えめな夕飯を食べる。健康診断も近いし休日のルーティンとして筋トレもして。

だけどどっか体が重くて有酸素運動はしなかった。ストレッチしてる最中もべったりマットに沈み込んだ。ストーブの前で暖かい空気を感じながら突っ伏して、早く洗い物して明日のお弁当の準備をして風呂に入らなくてはと思いながら全部億劫で仕方がなかった。踏ん張って起き上がってそれらをやった。

いつも通りにする以外に、わたしにはすることがない。

 

実感もなく、多分今後もそうで、ずっとなんだか信じられないまま半分夢なのではないかと思いながら、一緒に食事を摂ることすらない「好きな人」たちのことを考える。

きっとこの先もそれが起こり続けるだろう。わたしが今まで好きになった推したちは大多数が年上で、大きくは20歳ほど離れていて、順当にいけば先にいかれることになる。会ったことがないにせよあるにせよ、まあ、億が一にも死に目には会えないわけだ。死に目に会いたいかと問われたらそれも多分違うとは思うが、死生観の一要素としてそこに哀しさを見出してしまう。もしかしたら亡くなったことさえ知らないままということも有り得る。やっぱり奇妙に冷静になる。うすぼんやりと考える。なんなんだろう。どういうことなんだろう。答えは出ない。彼のこととは違う次元で考えている。どんなに好きでもという枕の後には今のわたしじゃ空虚な言葉しか続けられなくなってしまった。平静でいられないくらい取り乱す方がよかった気がした。

 

他人には普通に生きててほしい。当たり前に。当たり前だ。彼にだって全然元気でいてほしかった。別に選手じゃなくたってそんなことどうでもよかった。知らないところでもいい普通に、普通に生きててほしかったに決まってる。

だけどやっぱりわたしのどこかには終われたのがうらやましいという最低最悪な感情がある。この奇妙な冷静さはやっぱり薄情と呼ぶしかないんだろうな。見ない振りも出来ないから向き合ってみるけど。絶対に迂闊に言ってはいけないと分かっているけど敢えて言う。本当に代わってあげられたら、どんなに、と思った。

同時期に活躍したチームメイトが生前の彼の、プレー中でもない本当に普段のなんでもない映像を上げていて、初めて少しだけ泣いた。

 

ああ、ほんとはただ、実感がわくのが怖いだけなのかも知れないや。