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おなじことをなんどでも書く

♪:狂い蝉が叫んだ朝に

 

 

 

 

作品や作者に傾倒した過去に縋ろうとすると底の浅いバカバカしさを感じることがある。特に作者のなんでもない日常ツイートなんかを見ると自分の憂鬱の軽薄さが際立つようで、そういう安っぽい自分に愛されてしまった作品すらつまらないものになっていくようで、悩んだり迷ったりすることすらなんの価値もないなと引きずり合って落ちていく。だけど唐突に思い至って諦めた。わたしが学生時代のあのこやこのことの思い出を楽しかったなーと思い出すように、あのときやってしまったあれこれに恥ずかしかったなーと思い返すように、全ては私の記憶でそれ以上でもそれ以下でもなく、つまり敢えて忘れるような類いのものでもないんだろうなって。忘れることを良しとして思い出さないように気をつけてきた。その慎ましい努力は一部実っている。名前を見る度に湧き上がった敬愛すら思い出せない。作品を聴いて鮮明な感情が生まれる頻度も下がり続けている。それでいいと思う。

諦めればいいだけだと気がついた。人間の記憶は思うより簡単に無くなり、そして意図して消せるほど生易しくはない。残念ながら意志とは無関係に共存する。細く見えない糸を手繰るように聴かなくたって聴きたいときに自分で糸を編めばいい。別に必ずしも何か意味を持たせる必然性もない。あるものがある。それだけだ。