赴任先から地元まで高速道路を含む往路4時間弱、ひたすら音楽を聴きながら帰ってきた。定番のラジオ番組は復路のモチベーションとすることにしよう、なんとなくそんな気分だった。日付が変わる前には着けないだろうと思いながら夜をひた走る。こんなに高速を何食わぬ顔して走る日が(それも割と頻繁に)あろうとは。未だにちょっと信じられない。
アパートを出発してからインターに辿り着く前に「さよなら、スターダスト」が流れてきてしまい、その後の曲がぜーんぶエモく聞こえる呪いにかかった。エモいって表現、個人的には負けるみたいでいやだけど。本当はその言葉を解体してひとつひとつ書きたいと思う。一個人の感情的な文章しか書けないわたしは言葉に関する職業に就くことが出来なかったけれども、だからこそ唯一書ける感情に関してだけは拘ってその中身を書きたい。でも便利なんだよねエモって言葉。
自分がよくライブに行っていたせいもあるだろうけれど、ヴィジュアル系の曲はどれも刹那的で良いなと思う。どんな曲もその瞬間の肉声だ。過去のことが書かれていても未来のことが書かれていてもリリースがいつであっても「今」歌われているような感じがする。後先のことなんてそこにはない、置きにいく打算もない。苦痛だけが描かれているわけじゃなくて、ラブソングもあればダンサブルな曲もあるのにどこか切実に共鳴する。素晴らしい曲だらけで改めて感心してしまった。cali≠gariのスクールゾーン、ムックの流星、メリーの窓。全部全部最高だよな。
通勤途中なら飛ばしてしまう曲も久しぶりに全てじっくり聴いた。メリーの片道切符の歌詞に
“全てに終わりがあるのなら 身を任せこのまま流れよう
いつかはキミに出会えるだろう 歩き続ける旅人よ”
というフレーズがあって、ああ昔はこういうスタンスでいられてたなと思い出した。身を任せるのも手段としてあり、出会うべき人にはきっとどこかで出会えるだろうと。今は少し違う響きで聞こえる。時が経ったなと思う。
好きなものを無理矢理諦めることも今のわたしなら出来るだろう。どうせ2回目だ。前回はさんざんな想いをしたけれど、未だに瘡蓋を剥がして生傷みたいにしてしまうけれど、少なくとも「今」を知らないで済むようにはなる。次はきっと上手くやれる。
やっぱりきついなと思った。応援するのもされるのも向いてない。根本的に独りになりたがる。離れられるのが怖いから。明るくて爽やかで元気な、そんな美味しいところだけ齧ろうったってそうはいかない、最初から分かっていたことではある。そりゃあね。でも何だろう、この燻りは。ずっとあるモヤモヤは。しんどい思いって、もしかしてさせてる?それってこちらが強いている?だけどそこに線を引く方法なんてある?そうじゃなくたって、ねえ、そんなときに差し伸べる手さえ持てないよ。
ほらもう距離感間違えてますよー!もっとヘラヘラ好きでいろって言ったでしょ、ライトにイージーにテキトーにがモットーであるべきでしょー!何度も何度でも書き殴って念頭に置く。でもね、わたしが好きになったのは作品じゃない。言葉でもない。音楽ですらない。キミなの。例え虚像でもキミ自身なの。もう最悪の展開。
環境も文化も今までとは全然違う中で、出逢うタイミングも自分では選べない中で、なんとか模索しながら新しい置きどころを作るなり見つけるなりしないといけない。すごく難しい作業。難しいというか、最早無理かも知れないって思い始めてる。置いていかれたいんだなあ、わたしは。どうせ手を引いてくれもしないのにどうして笑いかけるの。だったら死ねって言われたほうがずっと容易く生きられる。わたしやっぱ帰りたいなあ、あの地下の暗くて狭いライブハウスに。あそこでだけはわたしはわたしを忘れられた。こんなクソみたいな自意識も轟音と明滅で散らして馬鹿みたいに笑ってられた。信仰と崇拝。あれはたったひとつわたしが許された場所だった。どんなときも誰といても「別にわたしじゃなくてもいいよね」って思うんだよ。わたしである必要なんて無いよねって。何だってそうだよ。だけど今は余計にその気持ちが強い。そんなの関係無い、わたしがここにいたいからいるんだって思えるだけの理由を、まだ全然見つけられてない。
何かを好きになってしまうこともそれが一生は続かないことも自分で許せなくて厭だ。一生好きでいたい、それが出来ないなら好きなものなんて要らない。
あのときみたいに目を逸らさせないで、目を覚まさせないで、なんて、ああ、絶対言えない。